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房一の老父、道平が二三日前に倒れたのだつた。そして、今、練吉に対診を求めて来たのである。
「ふん。何でもありやせんよ。大方、腹でも痛かつたんだらう」
のむことなら!といふ風に、練吉は切れ目をぱちぱちさせた。
「どこだ、どこだ。もう消えたのか」
次は客の湯の方へはいっているときである。例によって村の湯の方がどうも気になる。今度は男女の話声ではない。気になるのはさっきの溪への出口なのである。そこから変な奴がはいって来そうな気がしてならない。変な奴ってどんな奴なんだと人はきくにちがいない。それが実にいやな変な奴なのである。陰鬱な顔をしている。河鹿かじかのような膚をしている。そいつが毎夜極った時刻に溪から湯へ漬かりに来るのである。プフウ!なんという馬鹿げた空想をしたもんだろう。しかし私はそいつが、別にあたりを見廻すというのでもなく、いかにも毎夜のことのように陰鬱な表情で溪からはいって来る姿に、ふと私が隣の湯を覗いた瞬間、私の視線にぶつかるような気がしてならなかったのである。
宿の者はこういっただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。
房一は椅子から立ち上つた。
房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いているやうに彼を奥の方へ導いて行つた。
このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
「おぢいさん、そんなに立つてばかりいないで腰をかけなさいよ」
それは言葉にするとこんな風なものであつた。
「もう帰つたんかね」
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