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    けれども、ヌルい湯に長くつかっていることは、頭を鎮静させ、時空を忘れた茫々たる無心にさそいこんでくれる。うちの湯殿には灯がないので、ほかの部屋からの光で間に合せ、かすかに光のさす湯槽では、まったく、仮睡状態になるときがあった。インシュリンや電気ショック療法のなかった一昔前の精神病院では温浴療法というものをやったそうであるし、ヌル湯の湯治場では、精神病に卓効ありとあるのが多い。それは、しかし、私の場合のように、こんなに湯の温度に同化して長い時間仮睡状態にふけることができたら、と、註釈が必要ではないかなどと考えた。

    練吉はそれなり黙つた。

    「おーい、火事はどこい行つたあ」こんな風に、口々に喚いていた。

    「君達は一体何者だ!」

    「何だらう?」

    小谷は疳高い声で云つた。

    徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。

    「どうもこれぢや――」

    二人は間近かで眩まぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。

    相沢は釣られて思ひ出したやうに愛想よく答へたが、その歩き出した足は家の方へではなく、馬の方に近づいて行くといきなり親しげに平手で軽く馬の首を叩いた。驚いたやうに二三度首を振つた馬は、すぐ目をつむつて、快げにその光沢のある首を伸ばしぢつと愛撫をうけた。相沢はふりかへつて房一を得意さうに眺めた。彼はさつきから、房一がこの馬に気をとられているのを、そして馬を見るときの房一の目が一種の特別な光りを帯びているのに気がついていたので、どうしてもかういふ光景を演じて見せたいといふ子供染みた欲望を押へることができなかつたのである。

    「何かの、いつたいあの山を掘つても引合ふのかな」

    「えゝ、さうですとも、あれは傑えら物ものですよ。あの師団長は第一答礼の仕方からしてちがひまさあ。かういふ風にね、ゆつくりかう腕を上げてね(と、彼は身振りをして見せる)。めつたに口を利きませんでしたよ。口を利かなくても答礼の仕方がものを云ふんですよ。やあ御苦労だつた、なんて中隊長みたいな軽いことは云ひませんよ。睨まれやうものなら恐いの何んのつて、いやほんとに身体がぶるつと顫ふるへましたよ」

    この云ひ分はいつでも何かあるごとに、練吉の口に上つた。正文の前でも云つた。何年かの間繰り返された練吉の云ひ分だづた。

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