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    「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つていたさうぢやありませんか」

    それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにいた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。

    もう一度小学校の校庭まで辿り着いた時には、衣裳がくたくたになつたのと疲労し切つたのとで、行列をつくつて歩いている間に自然と現れていた共通の類似、あの正面を切つたまじめさが消え失せ、代りに日頃のそれぞれな持前が、尖つた顎だの鹿爪らしい顔つきだのいふものが今や歴然と姿を現した。まだ解散にならぬ前から気早やに冠をかなぐり取つた者もいたし、衣裳をぬぎにかゝつた者さへあつた。

    二人はなほ専門的なことを二三話し合つた。それから、どちらからともなく自転車に乗つた。ペタルに足をかけるときに、突然、練吉は心に浮かんだことを押へかねて、叫んだ。

    二人は間近かで眩まぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。

    近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にいる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括くゝられてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれていた。

    房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、

    しかし、正文は自分が練吉のこねまはす泥の中に足をとられているなどとはつひぞ思ひもしなかつた。外面的に折目立つたことの好きな正文には、どうにかうはべの恰好さへつけば安心するのである。練吉が男の子を一人抱へていつまでも独身では心許こゝろもとなかつた。だが、手を焼いている。そのうち、練吉は自分の気に入つた女を見つけた。今度は息子が好きで選んだからよからうと、正文はすぐに事を運んだ。それが茂子である。

    「なに、訴訟?」

    誰か遅れて来た者があつて、対岸のよい釣場に早く行かうとして腰まで水のとゞく急な流れを渡渉とせふしながら、危く水中に倒れさうになつてゆつくりした滑稽な身振りでもつて片手に竿を片手に追鮎箱を高く差し上げる、そんな様子を近々と認めても、他の者はほんの無関心な一瞥を投げるだけで、微笑すら現すことなく、すぐ又自分の竿の先に、水面に、追鮎の溌剌はつらつとした又しなやかな腹の捻ひねりやうにこらすのだつた。誰かが獲物を掛けたらしく、中腰になつて、大きく撓しなつたまゝで力強く顫へている竿を両手でゆるやかに引よせにかゝると、彼等は何かの気配でそれと悟るのか、いつせいに釣り手の方をふりむく。釣り手の及び腰の工合や、慌てて手網を探る恰好などから、彼等は獲物の大きさをおよそ知ることができる。一瞬羨しげな表情が彼等の上に共通して現れる。すると、彼等のうちの一人の竿が、突然強い引きを伝へて、それはググ……と快い持続的な引きに移る。つい先刻まで羨望の色を浮かべていたその顔は、今や恐しく愉快な緊張のために何だか調子外れな表情になつて、汗がその額を滑り落ちている。他の者は、自分の竿にも同じことがすぐさま起りさうな気がするために、熱心に前方を見まもりはじめる。今釣り上げたばかりの者がゆるゆると次の支度にかゝりながら、不漁の連中を眺めてやつているのに、後者は明かにそれと知つていて見向きもしない。急に日の暑さが感じられる。額から首筋にかけて汗のふき出るのがはつきりと判つて、それは拭ふのも忌々いまいましい位だ。獲物がばつたりと止まつて、誰の竿ももう大分永い間空しく動いている。彼等の間では、獲物から惹き起される興奮が言葉のやうな働きをしている。今はその興奮がどこにも現れないので、彼等はおたがひに一種の沈黙が皆を支配しているのを感ずる。

    瞬間、房一は緊張した。道平が急変したのかと思つた。さうではないらしい。急患だらうか。それだと、こんな風ではなく、もつと低くおろおろした風に云ふ筈だ。彼は手をやめて、耳をすませた。

    そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。

    私は朝と夕方と真夜中に入浴する。朝、ぬるいうちに私がはいり、そのあと熱くして家族がはいる。それをほッとくと、夕方、私には手頃のぬるさとなっている。

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