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と云ったそうだ。
「あゝ、さうだつた。なあんだ!」
鬼倉は一瞬、相手を地着きのごろか何かと思つたらしい、一種の殺気をひらめかした。
別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「をかしいからとは何ごとだ。火事だといふから手伝ひに来たんぢやないか、そして溝に落ちたのが何がをかしいんだ」
そんな風におぼえていてくれるとは思ひがけなかつた。
房一は下駄をつゝかけて外にとび出していた。何気なく腕時計をすかして見た。七時半だつた。まだそんな時間か、とびつくりして考へたのをおぼえている。すぐ傍を、人が駆け抜けていた。房一も走り出した。どういふものか、さつきうす暗がりで見たぼんやりした小さい白い時計の文字盤が頭の中で見えていた。走り出した方は真暗らな畑中の路だつた。今、房一の右にも左にも誰とも判らない人が一杯で、腕や肩がぶつかつた。小谷も練吉もいつしよに駆け出して来た筈だつたが、どこにいるか判らなかつた。
「やっぱり半之丞の子だったですな。瓜うり二つと言っても好よかったですから。」
小谷の話で、徳次はすつかり興奮したらしかつた。そのきよろりとした眼はすつかり開けひろげられ、一種上うはずつた色が動いていた。何となく落ちつかない様子で上半身をぐらりとさせ、無意識に片腕を振り降した。そのはずみにひよろ長く生えた雑草に手を伸して引きむしり、それを口にくはへた。
「さうよ。てめえはその大将だらう」
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
父親の眼を開けさせてみる。すると、その白い曇りのできた、大きな、力のない眼の中には、医者としての房一が知り得る以上のもの、何かしら深いほのめくものが、何かしら房一自身の奥にもぢかにつながつている、微妙な、過去の記憶といつしよくたになつた或る物が、ふしぎな力で彼の方を眺めているのを感ずる。はだけた胸に生えている一つまみの白毛、ひからびて弾力を失つた皮膚、横臥しているために腹部が落ちこんで、そのためによけい突き出すやうに持上つて見える肋骨の形、茶色がかつた紫色の痣あざのやうにぽつりとひろがつている乳部の斑点だの、――さういふものは、房一の扱ひ慣れている「患者の肉体」ではなく、一つ一つが見覚えのある特長を帯び、そこに父親といふものの形を感じさせ、それまで迂濶にも忘れていたもの、隠れていたもの、眠つていたもの、この露あらはになつた肉体と房一との間に結ばれているあの無数な、生まな感情が、おびたゞしくふしぎな強さで押しよせた。それと共に、何だか後うしろめたいやうな、愛情の混乱と云つた風な奇妙なこんぐらかりが、房一の内心に苦痛と動揺とをよび起した。
肉が部厚に盛り上つているために自然と深くできた額の横皺、稍やゝ動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出している円い確しつかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へていたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
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