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    すると、何てこつた、下手の渡船場の対岸にひよつこり房一の姿が現れた。河原に出ようとするらしく、自転車を厄介さうにわきに抱へて、崖縁についた急な小路をのろのろと危つかしい恰好で降りて来る。やつと判つた。今の今まで、徳次はそこに渡船場があるといふことを度忘れしていたのだつた。

    高間医院の待合室で、彼等は馴れない薬の香を嗅ぎ、一様に重たい、沈んだ表情を浮かべて、或る者は黙つて放心したやうに戸外を眺め、或る者は低いゆつくりした声でぽつりぽつり話し合ふのであつた。汗ばんだ匂ひや土の香、洗ひざらしの紺の野良着、熱の気配――それらは或るたとへやうもない倦怠と肉体的な不快を呼び起させる何物かによつてみちみちていた。それは農夫達の生活の一部が方々からこの待合室に持ちこまれて、この一所に、陰鬱な空の気配や、石塊いしくれの多い山合ひの畑での労苦や、長い畦あぜの列や、それらのいつしよくたになつた重々しい雰囲気を再現しているやうに思はれた。

    房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つていた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。

    それは房一がこれまでに漠然と想像していた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつていたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。

    だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診みてもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾かしげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びていた)彼の持牛についた虱しらみをとる薬はやはり人間にも同じ効きき目めがあるのかね、と訊いたりするのであつた。

    答へながら、彼は紅くなつていた。

    さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつているやうであつた。

    それは直造が案内状を出す間際になつて心づき、入念に考へたあげくに呼ぶことにした高間房一だつた。

    ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。

    と、相手は慌ててその筒抜けな声を庫裡の居間に向けて放つた。

    房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはいなかつた。

    房一は先に立つて行つた。居間も座敷も畳が入れかへてあつた。だが、家具らしいものの何一つないこの大きな部屋には何かちぐはぐな乾いた空洞のやうな空気があつた。部屋の向ふには裏手の築地で四角に仕切られた庭があつた。そこにも目につくやうなものは何もなかつた。土の上に新しく削りとつた雑草の痕跡が一杯にのこつていた。その急に日向ひなたに出され、人の足に踏まれて顔をしかめたやうな土のひろがりの向ふには、低い築地とその際にたつた一本だけかなりに大きな無花果いちじゆくの樹がぼつさりと茂つていた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。

    「あゝ、さうか。あゝ、さうか」

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