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    盛子は風呂場の入口で上はずつた声を出した。

    「いや、どうぞ構はんで下さい」

    「ふうん、それもよからう」

    「知吉さんはこれまで散々踏みつけられて来たんだから、自分が戸主になつてみるとこれまでの腹いせといふ気もあるんでせうな」

    「いや、あれは私が勝手に頼んで来てもらつたんですからな、御心配はいりませんよ」

    彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つていた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつていることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察している間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしている道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つていた。

    かうして、予定の時刻を大分遅れて小学校の校庭に辿りついた時には、腹は空くし全く放々の態であつた。が、遅れたのはその一隊ばかりでなく、所々で踊りを見せながら山車だしを引つ張つて来る組も、他にも大分遅れる組があつた。で、彼等は気をとりなほして万歳を三唱し、直ぐに思ひ思ひの所に散らばつて焚出たきだしの握飯をほゝばつた。もうこゝは町内であるから、たくさんの見物人が集つて来ていたが、午前の一歩きですつかりへこたれ、埃で顔が黒くなり、疲れた彼等は、そのおかげでもう照臭さも何もなかつた。

    「さあて、帰るかな」

    明いうつとりするやうな午後であつた。房一はトラホーム患者の婆さんに処置をして帰した後で、そこらを片づけ、先づ一服といふところで不断かけ慣れた廻転椅子に腰を下し煙草をくゆらしはじめたものの、それもほんの一吸ひか二吸ひで、そのまゝぼんやりと戸口の方を眺めていた。いや、眺めていたといふのはあたらない。彼は別に何も見ているわけではなかつたから。が、とにかく、彼の目の向いている方には見慣れて、そのために見るといふ感じを起させない、あの高間医院といふ字を裏側から透すかし出した曇り硝子の二枚戸が片寄せになつて、そこに長方形のかつきりした戸口があり、それは宛かも節穴を通して眺める戸外が一種異様に鮮明に見えるのと同じ風に、その戸口からちやうど石畳の露地のやうになつた両側の築地塀と、そこで一所だけ区切られた表の道路、白い路面の輝き、その向ふに高まつた畑だの、そこに今は気早に黄ばんだ葉をつけ、その聞から紅味のさした円つこい実をのぞかせて、ぽつんと一本だけ立つている柿の木、だのいふ物を何となく鮮明に何となく際立つて見せていた。かう云ふと、読者はもう、房一が前にも何度かこゝであの廻転椅子に身をうづめ、眺めるともなく戸口を眺めかがらぼんやり考へごとをしたことがあるのを思ひ出されるだらう。

    心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的な確しつかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。

    河原町の評判では、徳次は怠け者といふことになつていた。恐らくそれは、河から上つた徳次が水をはなれた河童のやうになすところを知らぬげなぽかんとした様子に起因していたのだらう。彼は怠け者ではない。彼にはきつと、自分の気に向いた仕事にだけ熱中する子供染みた無邪気さが他の人よりはよけいに残つていたのだ。その証拠には、河に下り立つてからの彼の動作には、別人のやうにきびきびした手順のよさと云つた風なものがあり、間もなくわき目もふらずに働きはじめたのを見ても判る。冬近い時候なのに、額には汗が流れていた。彼は時間のたつのを忘れていた。

    「やあ、君か」

    と訊いた。

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