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    勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少い。そんな座敷があったとしても、それは僅わずかに二間か三間で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚だしきは三畳などという狭い部屋もある。

    「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」

    「ジョン、そら!ウシ!」

    答へながら、房一は少からず面喰つていた。声をかけられるその瞬間まで、彼は酒造家の相沢を何となくでつぷり肥つて、木綿縞の袷あはせの袖口から肉づきのいゝ手首を喰はみ出させた、紺の前掛でもした男を想像していたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。

    間もなく二人は来た時と同じに、つれ立つて、いくらか日蔭のできた路を、どういふものかどちらも自転車に乗らうとはしないで、押しながら歩いていた。

    温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑おかしくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。

    「ありがたう。――あ、大きいね」

    彼は重ねた両膝の間に尻を落すやうにして坐つていた。それは七十近いこの年まで坐りつゞけ、他の坐方を知らない者に独特な、云はば正坐しながらあぐらをかいているやうな安楽げな恰好だつた。そして、何か話すたびに前へ首を落すので、その猫背はだんだんと前屈みがひどくなつて、胴から上が今にも両膝の間にのめりこんでしまひさうに見えた。が彼がすこぶる上機嫌でいることは房一の目にも見てとれた。

    「うむ、うむ」

    房一はふとその様子から、医者になつてはじめて帰国したとき、例の伯父が苦学の模様を根掘り葉掘り訊いて、満足げにうなづいたときの恰好を思ひ出した。そして、いつのまにかこの老医師に親しみを感じ出している自分に気づいた。それは彼が予期したこと、前もつていろんな風に描いていたものとはまるでちがふものだつた。この分では大して案ずることはない、房一はさう考へた。何かしら前の方がひらけ、何かが前の方で微笑して彼を迎へているやうに思はれた。

    「私共は、これも(練吉を指して)この町の医者です。実は火事だといふから駆けつけたので。聞けば、演習だといふことですが、それなら前もつて町役場なり駐在所なりへ通知があるべき筈だと思ひますが、それはなさつたでせうな」

    「――?」

    「畜生、弱い奴だ」と、根津は笑った。

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