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これらの、過去一年あまりの中に或ひはひよつこりとした凸起をなし、或ひはまはりをぼかしたまゝ遠のいているさまざまな出来事のうちで、たつた一つのことが抜け出し、それは一向に過ぎたことにならないで依然としてつゞき、絶えず現在として変化し、房一に或る影響と関心を与へているものがあつた。たつた一つ――それは盛子の妊娠であつた。
「その姿は見えないのですが……。」
「あなたは、多分――」
今や、それらのことは遠くなつてしまひ、他愛のない子供の日の思ひ出でしかなかつた。練吉は両親の希望通り医者になつていた。しかも、事あるたびに、この幼時に押へつけられた日の悲しみが突然、練吉の中に溢れ、それは永い間に積つた憤りのごとく、彼の運命の唯一の手違ひだつたごとく、彼の不身持の云ひわけにもなり、又正文への訴へといふ一種矛盾した形となつて現れるのだつた。
こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病を養うに足るような、安らかな暢のびやかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。一利一害、まことに已やむを得ないのであろう。
と、ちやうど追鮎箱のところへ立つて行きかけた徳次は、事もなげに云つた。彼はその水際のところでいきなりシャツをはぎとると、バシヤバシヤツと水洗ひをして、それを日に焼けた石の上に乾した。そのまゝ房一と小谷の前に来ると、美事な半裸体のまゝ腕組みをして突立つた。一種単純な、力づくといつた様子が現れていた。
小谷は相手にされなかつたやうに感じてちよつと顔をしかめた。が、しばらくすると又声をかけた。
横合から冷かすやうに口を入れたのは雑貨店の庄谷だつた。痩せた上に黒く日焼けがし、固く乾いたやうな顔には小さいが白味の多い眼がいつも人を小莫迦こばかにするやうに閃いていた。彼はさつきもその眼で入つて来たばかりの房一を見、房一が挨拶すると「あン」といふやうな声を出しただけで、すぐに話に聞き入つていたのだつた。
これが若し他人だつたら、或ひはかけがへのない一人息子でなかつたら、正文もいさぎよく結着をつけてしまつたらう。「道楽息子」――その一言で済むわけだつた。
「あら、お帰んなさい。随分早かつたのね。もう済んだんですか」
と手早く切り上げて、堂本の家を出た。
「ふむ」
と、房一は加藤巡査に云つた。御苦労だが、加藤巡査には角屋のところで本署の自動車を一先づとめてもらひたい。こつちは自分が引受けるから、こゝへ乗りつけないやうに何とか待たせていたゞきたい、その間にこちらの始末をつけ、自分が責任者になつて出向いてよく話をするから――。
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