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    小谷は酔つて来たのだらう、何度も同じ手真似をして見せた。

    「御機嫌だつたね」

    安政三年の初夏である。江戸番町の御廏谷おんまやだにに屋敷を持っている二百石の旗本根津民次郎は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸いに一命に別条はなかったが、左の脊から右の腰へかけて打撲傷を負った。

    房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。

    と、腰をたゝいてみせた。そこにはまだ一足、紙衣の下からはみ出すやうに、ぶら下つていた。

    房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めていた。

    と、何か文句にならないことを口の中で云つて、もう一度低いお辞儀をかへした。

    男はその時、案外なほど寂しみのある表情を浮かべ、頬杖をついてぼんやり戸口の方に顔を向けていたが、眼だけをちよつと動かせた。だが、知らぬふりでビールを口へ持つて行つた。

    今日幾人かと会つて口を利いただけで、彼は自分が今はじめて河原町での医師になつているのを感じた。それはまだ形ができてはいなかつた。だが、彼の足は今河原町の土を踏み、彼等が房一を認めると否とにかゝはらず、否応なくその相手になつていなければならなかつた。この短時間のうちに得た小さな発見は、何故か房一の胸に或る落着きを与へた。

    徳次は新聞なんかはとつていなかつた。ところが、町のずつと上手にある町役場では、すぐ近くのバスの発着所からいの一番に配達されるし、又県庁からの示達があるので、いろんな特種とくだねが入つた。今泉は早耳好きだつた。それに堀内将軍は聯隊長時代に今泉の上長だつた。その年の夏青島攻略がはじまつて、新聞に堀内将軍の記事が出て以来、今泉は何度河原町でこの「信水閣下」のことを話したものだらう。彼は夢中になつていた。その情熱のおかげで、今泉は町中の人が彼と同じ位に「信水閣下」を知つているやうにさへ思ひこんでいたのである。だから、新聞で凱旋の記事を見たとき、今泉はもうどんなにしてもそのことを知るかぎりの人に、誰でもいゝ、報しらせたくてたまらなかつたのだ。

    「ところがね、大石さんの銃は、あれはマネスターと云ひましたかね、あのマネスターは立派なんだけどなあ。そのわりにあたらないもんですね」

    「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」

    徳次は自分のことのやうに熱心に路順を考へた。

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