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    さう云ひかけた時だつた。さつきから口々に何か叫び、又しづまりかへつていた下方で突然又あの板切れの井桁積みがくづれる音がした。その異様な、ばりばりといふ音は何か鋭い速い広い浪のやうな不安をひろげた。それは偶然の不吉な暗示を与へたやうなものだつた。誰かが、ずつと先きの方で溝をとび越え、木柵にとりついた。すると、又何人かが土手を駆け登つた。めりめりと木柵を引倒す音が立つた。と思ふと、房一は突嗟とつさに身をひるがへして土手づたひにその方へ走つていた。彼は一二度傾斜で滑り、殆ど転んだかと見えたが、間もなく身体を起した時にはもうその場所に立ちはだかつていた。

    と後を追ふと、徳次は

    「――?」

    「さうだ、鍵屋の法事へ行くんでね。さつきは、君にさう云ふのを忘れていたが――まあ、上りたまへ」

    練吉はちらりと眺めた。そして、彼のところへ対診を頼みに来た時にも気づいた、あの当惑したやうな小心な表情が今も房一の上に現はれるのを認めた。それはたしかに観物だつた。この男に、こんな気の小さいところがあらうとは!そして、こんなに丸出しにして見せるとは!

    その日もやがて夜となって、夏の温泉場も大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣の座敷で女の軽い咳の声がきこえる。もちろん、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがてまたその咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまん中へ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。

    「まあ、――上の町の大石さんとこ位は行つとくのもよからうが」

    「ちつとも知りませんでしたよ」

    房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。

    房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。

    半ば感心し、半ば疑はしさうに、彼は指を自分の眼に向けてみた。

    と、思はず房一の微笑に釣りこまれて、練吉は気がるな笑顔になつた。いつのまにか、かた苦しい「わたし」から「僕」といふ云ひ方になつたのも気づかないで。

    浴客同士のあいだに親しみがあると共に、また相当の遠慮も生じて来て、となりの座敷には病人がいるとか、隣の客は勉強しているとか思えば、あまりに酒を飲んで騒いだり、夜ふけまで碁を打ったりすることは先ず遠慮するようにもなる。おたがいの遠慮――この美徳はたしかに昔の人に多かったが、殊ことに前にいったような事情から、むかしの浴客同士のあいだには遠慮が多く、今日のような傍若無人の客は少かった。

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