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「印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻で荒あばれまはつているんだつてね。それがちつとも捉つかまらないと云ふから面白いねえ」
「うん、もうさつき帰つたよ」
何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。
と、房一はほつとした面持になつて云つた。
疲労したあまり不機嫌になつた大石練吉は、手荒く疳性かんしやうに衣裳をくるくると巻きながらいつもよりも激しくその切れ目をぱちぱちさせて云つた。
「先生お帰りになりましたかね」
房一はすかさずさう口にすると、低く鹿爪しかつめらしいお辞儀をした。どうも、これでは少し固苦しいかな、と自分の声を自分で聞きながら。彼はいくらか汗ばんでいるやうな気がした。慌あわてないで、さう自分に云つた。
木柵の男は、稍ひるんだ風に一寸黙つていたが、そんな風に怒鳴られることに慣れてもいず、又予期していなかつたらしく、押し返すやうに低いバスの音で云ひ返した。それはどこか、命令することに慣れた、威圧するやうな響きを含んでいた。
「うん」
「大石練吉です」
知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にいた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質むかしかたぎの一克いつこくな性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和おとなしさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見には挺てこでも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つていたが、あいはそこへ奔はしつた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へていたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしていた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へていたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つていたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうに忌いみ嫌つていた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。
「畜生、弱い奴だ」と、根津は笑った。
「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
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