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    「何しに来た!」

    と、房一は小谷に向つて訊いた。

    房一は怒つたやうな嘲あざけるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついていた。

    「なにしろこんな狭い田舎ぢやから、何事もねつうやる。それをやらんと後がうるさい。自然評判を落すといふことも起るかな」

    低地になつた野菜畑の間を抜けて、まるでどこかの城跡の石垣めいた、頑丈な円石を積み重ねた堤防の上に次第上りに出ると、いきなり目の前に、日を受けて白く輝き、小山のやうに持上り、凹み、或る所では優しげになだらかな線を引いた、だゝつ広い河原の拡がりが現れて来る。

    見たことのない顔だつた。患者なら玄関から来る筈だ。

    今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。

    再度上京して前いたことのある病院に書生として住みこんだ房一は、まつしぐらに一つの目的に突進した。その最初にあんなに不安定な時期があつたにもかゝはらず、三年後には前期と後期の二試験をつゞけさまにパスして、医師としての資格を得た。その間に彼を鼓舞したものは実にはじめ伯父を訪れたときにその家の書架から発見した「西国立志篇」だつた。その本はもう何度となく読みかへされたので、頁がぼろぼろになつた。それから何年間か代診としてその病院に勤めた。その間に開業の資金を貯蓄したい考へだつたが、なかなかうまくはいかなかつた。かへつて少しの放蕩の結果、芸者に子供を産ませたりして、その方は曲りなりにも片づいたが、貯へは費ひ果してしまつた。しかし、開業の資金は故郷の伯父が工面してくれることになつたので一安心だつたが、その代りに河原町に帰つて開業すること、と云ふ条件がついていた。

    この分では永くなりさうだと思つて、房一が腰を浮かし気味にすると、

    三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けている最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目はめにもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。

    と、横合から老父の道平が房一に寄り添つて来た。

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