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と、加藤巡査は声を落した。彼は、さきほど事が容易でないと思つたから、とり敢あへず本署に電話をかけた、署長はじめ自動車で来ると云つていたから、まごまごしているうちには着くだらう、さうなるとこのまゝでは納をさまりがつかなくなる、怪我人を出さぬうちに事が静まるのは自分の望むところであるし、皆さんの方もいゝではないか――。
両隣りに挨拶するのも、土産ものを贈るのも、ここに長く滞在すると思えばこそで、一泊や二泊で立去ると思えば、たがいに面倒な挨拶もしないわけである。こんな挨拶や交際は、一面からいえば面倒に相違ないが、またその代りに、浴客同士のあいだに一種の親しみを生じて、風呂場で出逢っても、廊下で出逢っても、互いに打解けて挨拶をする。病人などに対しては容体をきく。要するに、一つ宿に滞在する客はみな友達であるという風で、なんとなく安らかな心持で昼夜を送ることが出来る。こうした湯治場気分は今日は求め得られない。
「ウシ!ウシ!」
今や彼女の全体が、一箇の人間としてのあらゆる陰影を含む全性格が何かしら重要な変化を来した。初産のためか下腹部のふくらみはさう目立つほどではなかつたが、それでもあの特長ある身体つきを変へるには十分だつた。全体にひどくゆつくりした、内省的な落ちつきが支配していた。たゞ眼だけが、張りのある眼だけが稍神経質なうるほひを帯び、どこかとび出したやうに見え、一種の弱々しさと複雑さがそこに動いていた。ふしぎな変化だつた。そこには五六ヶ月以前の盛子の代りに、盛子によく似た、だが何かぽつてりとした、重たげな、ゆつくりした女がいた。あの長身が別に寸つまりになつたわけではなかつた。しかるに以前の靱しなやかさは姿を消してしまひ、又あの特長ある語尾の跳ね上りも聞えなくなつてしまつた。張りのある眼も、いつも下腹に気をとられているためか、何となく伏目の感じになつていた。が、どうかした瞬間、びつくりしたり感動したりするときにだけ、突然あの盛子が殻を破つたやうに顔を出すのであつた。それはあの、結婚当初の盛子といふよりも、すでに十分成熟した、娘らしい硬かたさのすつかりとれ切つた、眩まぶしさのない代りに何か直接的な女らしさといふやうなものであつた。
と、ゆつくりはじめた。
「えらい評判ですなあ。けつこうですよ。ぜひ話しに来て下さい。わたしはこんなにいつもひまですからな」
「さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな」
盛子の妊娠を耳にしたのはまだ病気前のことであつた。だが、間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとして焦あせつた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつていた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはいたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつていた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしているかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つていたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つていた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけていたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へていたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた!今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
房一は椅子から立ち上つた。
今度帰郷してから庄谷に会ふのは今日が始めてだが、房一のことは庄谷も知り抜いている筈なので、彼の方から祝ひの言葉の一つ位はかけてくれさうな気がしていたのに、房一はあてが外れたやうに感じて、少なからず手持無沙汰だつた。だが、庄谷は知らないどころではなかつた。たゞ彼には房一が医者になつたことが何となく気に喰はないのである。庄谷の眼からすれば、以前からさう手軽るに親類顔をしてもらひたくないと思つていた家の薄汚い息子でしかない房一が、今突然医者として現はれて来たつて、それを認める気にはなれなかつた。この善良で小柄な、小柄なくせに横柄な男は、頭のてつぺんから足のさきまで河原町の者だつた。彼はこの町に生れて、家業である雑貨店を継いだ。それからもう何十年、店の入口の障子は硝子戸に変り、商品もランプの代りに電球を置くやうになつた。だが、いつたいそれがどういふ変化だと云ふのだらう。何もかも大事なことは変つてはいなかつた。もう十年来どこの家でも戸数割の納め高は同じであつた。彼の家の前を通る大抵の人は彼より少い戸数割を納めていた。だから、彼はそこで会ふ大抵の人に、「あン」と云つて一寸頭を動かせばよかつた。無遠慮にぢろぢろ通りがかりの人を眺める癖を改めなくともよかつた。それは彼のこれまでの生涯をつゞいた。これからだつて同じことだとしか思はれない。何もかもちやんと決まつていて、疑ふこともなければ、案ずることもない。だから、それに当てはまらないことが目の前に現れても、それは初めから無いに等しい。彼を支へている考へがあるとすれば、ざつとかういふ考へだつた。
「お前、往診に出てた?」
「ジョン、降りろ」
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