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    その間に、房一は駆けつけて来た駐在所の加藤巡査としやがみこんで、しきりと善後策を講じていた。傍には練吉も、神原喜作も、小谷も、それから徳次の顔まで見えた。徳次はきよろりとした眼を一層大きくし、加藤巡査と房一とが話す様子を熱心に見まもり、時々うなづき、口をもごもごさせて、何か云ひたげにしていた。加藤巡査はさつきから人々の塊りの間を説得して廻つていたが、無駄であつた。今や驚くほどの寒さが感じられたにかゝはらず、加藤巡査の顔は疲労し、汗を浮かべ、しきりに手真似を入れて話していた。明かに出張所側の手落ちだつた。が出張所の側では門を固く鎖ざし、どこかへ引きこんでしまつているので、話のつけやうがなかつた。

    若しさうだつたら、そのまゝおとなしく坐つてはいられまい。それは、皆の前で公然と頭を押へられた所を自認するやうなものだ。前例にもなるだらう。一度きまつたとなつたら又打破るのは容易ではあるまい。それは、河原町で今後医者として立つて行けないことを意味する。頭を押へられたきり、ついには逃げ出すより他はないといふ破目に陥るだらう。彼は思つた。

    「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」

    「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」

    と云つた。

    わたしはこの婆さんにいろいろの話を聞かせて貰いました。就中なかんずく妙に気の毒だったのはいつも蜜柑みかんを食っていなければ手紙一本書けぬと言う蜜柑中毒の客の話です。しかしこれはまたいつか報告する機会を待つことにしましょう。ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。お松は何でも「三太さんた」と云う烏猫からすねこを飼っていました。ある日その「三太」が「青ペン」のお上かみの一張羅いっちょうらの上へ粗忽そそうをしたのです。ところが「青ペン」のお上と言うのは元来猫が嫌いだったものですから、苦情を言うの言わないのではありません。しまいには飼い主のお松にさえ、さんざん悪態あくたいをついたそうです。するとお松は何も言わずに「三太」を懐ふところに入れたまま、「か」の字川の「き」の字橋へ行き、青あおと澱よどんだ淵ふちの中へ烏猫を抛ほうりこんでしまいました。それから、――それから先は誇張かも知れません。が、とにかく婆さんの話によれば、発頭人ほっとうにんのお上は勿論「青ペン」中じゅうの女の顔を蚯蚓腫みみずばれだらけにしたと言うことです。

    各区内から繰り出された行列はちやうど正午少し前に上手の小学校に集合し、一斉に万歳を奉唱し、中食をすませて更に町内を練り歩くことになつていた。はじめから主だつた町内を歩くのでは照臭てれくさくもあつたし、且つは又家の少いところを先に済ませてしまはうといふ考へから、紙着の一隊は先づ手はじめに河向かはむかふへ繰り出したのであるが、それが失敗の基だつた。路は近さうに見えて案外遠かつた。大体いゝ加減なところから引返して来はしたものの、なにしろ足はめつたにはいたこともない木箱につゝこんでいるのだつたし、十一月とは云へ日に照りつけられ、汗ばみ、埃をかぶり、紙衣はがさがさして歩きにくいことこの上もなかつた。そして、笏しやくを胸のところに両手で捧げ持ち、多少とも気を張つて真正面をむいて歩くのは、かなり努力の要ることだつた。しまひには、木箱の中で突つかける指先きに豆ができたばかりでなく、薄い板片れでつくつたその沓底は割れるものが続出し、中には様子を見ながらつき添つて来た男に家まで草履をとりに走らせた者があつた位だつた。

    「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」

    盛子は風呂場の入口で上はずつた声を出した。

    その住居の端々はしばしにまで行きわたつている潔癖さは、同時に大石正文夫妻の年来の好み、その生活の信条といつた風なものをも漠然と現はしていた。

    「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、

    「おい、ビールは冷やしてあるかい」

    と、声をかけたが、返事がなかつた。間を置いて、今度は高い声を出すと、しばらくたつて、横手の襖ふすまが殆ど音を立てない位にそつと開いて、半白の頭を円坊主にした、痩せて黄ばんだ皮膚の五十がらみの男が、きよろりと驚いた眼をして、口を半ば開けたまゝのぞくやうに現はれて来た。

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