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    その時、又あの鈍い重量のある音が下流の方からどよめいて来た。それは前のよりもはるかに大きく、つゞけさまだつた。

    気の毒であるから、風呂はわかさなくともいいぜ、と高橋に云うが、彼も私を気の毒がっているらしく、たいておく。親切はありがたいが、気の毒がられるのも、つらい。思うように仕事ができないと、フロたきの人たちに悪いような気持になるので、かえって負担になることがあった。

    盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いていた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいていた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じていた。

    「いや、なに」

    「神尾司令官閣下と同列なんだよ。宇品から東京駅着。それから直ちに参内上奏されたんだよ。どうも、すばらしいね。目に見えるやうだね」

    房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つていた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つている自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじている兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより他はないその手の皺の間に土の浸みこんだ日焼けのした兄弟達は、誰から云ひ聞かされたわけでもないのに自分に与へられた運命の限度を知つて日々を落ちついて暮しているあの楽天的な人達であつた。彼等は今房一の成功を恐らく当人以上に悦んでいた。彼等にとつては房一はその唯一の代表者であつた。誰でも世間的な野心は持つているものである。そのないやうに見える人達にあつても、それは眠らされて見えがたくなつているか又は何らかの形に変形されているものである。そして、この世間的な野心といふものも、実は生の根源力にほかならない。彼等のあきらめていたもの、若しくは自然にあきらめたと同じ結果になつたこの野心を房一の中に見た。それは房一のものでもあるが、同時に彼等のものだつた。今彼等は彼等自身の全部の希望をこめて、懸命に控目に房一を支持しようとしていた。その単純な幸福さうな輝きが房一の心を捕へた。

    が、房一をよく知つている者にとつてはその低い居場所がよけい注意をひくらしかつた。千光寺の住職は何気なく一座を見廻しているうち、思ひがけない所に房一を見つけ、ちよつと顔色を動かせた。それから、時折房一の視線を捕へて会釈ゑしやくしようとしたが、遠くて駄目だつた。庄谷は逸早く房一の席に気がついたらしい、が、その殆ど白味ばかりのやうな細い眼にちらりと微笑を浮べたきりだつた。

    馬喰達は出て行つた。徳次は残つた。一人でぶつぶつ云ひながら、宛かもそれで勇気をふるひ立たせようとするかのやうに、さかんに身体をぐらぐらさせた。その度に、彼の敵意は露骨になつていつた。橋本屋の主人は何とかしておとなしく引上げさせようと骨を折つた。が、それはかへつて徳次を興奮させた。主人の引きとめる手を払ひのけながら、彼はつひに鬼倉の前にどかりと坐りこんだ。

    男は力なげに口をあけていた。

    房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞はにかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。

    温泉の浴場は溪ぎわから厚い石とセメントの壁で高く囲まれていた。これは豪雨のときに氾濫する虞おそれの多い溪の水からこの温泉を守る防壁で、片側はその壁、片側は崖の壁で、その上に人々が衣服を脱いだり一服したりする三十畳敷くらいの木造建築がとりつけてあった。そしてこれが村の人達の共同の所有になっているセコノタキ温泉なのだった。

    「や、ありがたう」

    男は、びつくりしたやうに房一を見た。

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