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「うちへもかね」と訊いて置きながら、その自家うちへ寄つて行けとも云はない。房一はふと庄谷の眼尻が人並より下つて、そこが特長のある皺になつているのを認めた。その皺の奥から時々庄谷の眼がこちらの顔を撫でるやうに見ていた。さつきから何度も微笑したやうに見えたのは、この皺のせいかもしれない。
徳次はやつと安心した。さう云はれてみると、なるほどちつとは大きいかなと思つた。持つて来た甲斐があるといふものだつた。
――もともと、練吉は房一から対診を頼まれたことさへ少からず意外だつた。これが若し、自分の場合だつたら、それは弱味を見せるといふことだつた。彼はまだ、房一に対診を頼むやうなことはつひぞ考へたことはなかつたし、これから先だつてそんなことを考へつきはしないだらうと云ふより、練吉には漠然と、房一を自分と同じ医者だと見る気にはいまだになれなかつたのである。
ごろごろする石の上を下駄ばきでは歩きにくかつた。房一は川から上つたまゝの濡草履をはいているので速い。盛子は空からになつた追鮎箱を手にして後からついて行つた。
「もう着てみましたか」
「昨日、君とこの奥さんがバスに乗るところを見かけたが、――」
人間というものは、これ以上の快適をむさぼる必要はないということを考えたりする。人生はこれぐらいのものだという嘲笑的なものではない。もっと充足し、ひたりきった楽天気分だ。なんのために生きるか、なんのために仕事をするか、なんのために入浴するか、そんなセンサクを失った充足感において、こうしていることのあたたかさ、なつかしさを感じることがある。ここに宇宙あり、と大袈裟に云っても、とりわけ変とも思わないだろう。別に詐術ではない。種と仕掛はハッキリしている。一定の温度とその持続だけのことなのである。
「はン」
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
そこには、ついこなひだまで足ならしのよちよち歩きをしていた筈の道平が、本家の孫息子につき添はれてではあつたが、ちやんと一人立ちになつて、ゆつくりゆつくり足を踏み出していた。病後で彼の顔は大分変つていた。その左側の半分には、まだ心持ひきつゝたやうな痕跡がのこつて、したがつて、そつち側だけの眼と唇がいくらか引つ張つたやうになつている。だが、その不自由な表情の中には何か懸命な、かうして歩いて来たことを見てもらへるといふ悦びが明かに漲みなぎつていた。
どういふ加減からか、それを云ふ時、相沢はぐつと又相手の顔をのぞきこんだ。それは何となくもつたい振つた、重々しい様子だつた。
今泉は元陸軍の下士官であつた。退役後彼は河原町に帰つて役場につとめた。生れは河原町の在で、そこに帰れば自作農程度の田地があつたが、どういふものか野良仕事がすつかり嫌ひになつていた、彼は聯隊か、師団司令部の表札がいつまでも好きだつた。彼の話の中には聯隊長だとか師団長だとかがよく出て来た。又、自分の下士官時代の上長官の名をよく覚えていて、時々異動の発表されるごとに新聞紙を丹念に読み、「ほう、少将進級か」とか、「ふむ、アメリカ大使館附か」とか、しばしば感嘆の声を洩すのであつた。
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