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    「さうだよ、ジョン」

    再度上京して前いたことのある病院に書生として住みこんだ房一は、まつしぐらに一つの目的に突進した。その最初にあんなに不安定な時期があつたにもかゝはらず、三年後には前期と後期の二試験をつゞけさまにパスして、医師としての資格を得た。その間に彼を鼓舞したものは実にはじめ伯父を訪れたときにその家の書架から発見した「西国立志篇」だつた。その本はもう何度となく読みかへされたので、頁がぼろぼろになつた。それから何年間か代診としてその病院に勤めた。その間に開業の資金を貯蓄したい考へだつたが、なかなかうまくはいかなかつた。かへつて少しの放蕩の結果、芸者に子供を産ませたりして、その方は曲りなりにも片づいたが、貯へは費ひ果してしまつた。しかし、開業の資金は故郷の伯父が工面してくれることになつたので一安心だつたが、その代りに河原町に帰つて開業すること、と云ふ条件がついていた。

    それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつている静寂とそれを支へている平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。

    いつもはその不器用な容貌の蔭に眠つている不敵さ、だが何か圧迫を加へられると忽ち跳ね起きて来る反撥する房一の気質は、同時に圧迫しようとかゝるものを嗅ぎつける点でも敏感であつた。その敏感さで房一は相沢が一方では彼を賞ほめ上げながら逸早く往診を求めたのはその恩恵と好意によるものだと知らせたがつているのを見抜いた。こんなことになると、房一はふだんよりなほ茫ばうとした眠たげな眼つきになる。その目でちらりと相沢を眺めたのである。動物達の間でよく起る出会つた瞬間に相手の方を見究めようとする、あの本能的なすばやい判断力の点では、房一は生れつき得手だつたが、困苦の暮しの間にそれはなほ鋭く力あるものとして育つた。理性といふよりはむしろ動物的なこの嗅ぎつける力のお蔭で、今房一はたゞ鼠のやうな眼をした小柄な男を見ただけであつた。それで十分であつた。房一は前より落ちついて相沢を気にかけなくなつた。

    「私も眠れなくて夜中に一度湯へはいるのですが、なんだか気味が悪るござんしてね。隣の湯へ溪から何かがはいって来るような気がして――」

    一番はしの家はよそから流れて来た浄瑠璃語りの家である。宵のうちはその障子に人影が写り「デデンデン」という三味線の撥音と下手な嗚咽の歌が聞こえて来る。

    「印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻で荒あばれまはつているんだつてね。それがちつとも捉つかまらないと云ふから面白いねえ」

    「もうそんなにおよろしいんですの?すつかり御無沙汰していました。ほんとうに!よくおいでになれましたわねえ」

    彼は重ねた両膝の間に尻を落すやうにして坐つていた。それは七十近いこの年まで坐りつゞけ、他の坐方を知らない者に独特な、云はば正坐しながらあぐらをかいているやうな安楽げな恰好だつた。そして、何か話すたびに前へ首を落すので、その猫背はだんだんと前屈みがひどくなつて、胴から上が今にも両膝の間にのめりこんでしまひさうに見えた。が彼がすこぶる上機嫌でいることは房一の目にも見てとれた。

    それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早ようございますの挨拶さえもする人は少い。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男はもちろん、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早ようはおろか、黙礼さえもしないのが沢山ある。こういう人たちは外国のホテルに泊って、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴あびせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑おかしくなることもある。

    「さうなんですよ。まあだ帰らないの」

    云ひながら、道平はこれ又大いに気にかけていたことがあつさり片づけられてしまつたので、いくらか不服でもあり、手持無沙汰でもあるといつた様子だつた。

    「ふん」

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