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    盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いていた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいていた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じていた。

    「あ、お帰んなさい」

    注意深い読者はすでにお気づきだつたらうが、この二人の人物の間で若しどちらか相手の御機嫌をとらねばならない立場にあるとすれば、それはさしづめ房一である筈なのにどうも反対に相沢がさうであるやうに見える。彼が馬の所へ歩みよつたのも、房一の気に入りさうなことへ先潜りして行つたところがないでもない。ちよいちよい顔を出すをかしな傲慢さの他に、相沢には何か理由があつてのことか、それとも誰との場合にも相手に取入らうとする性癖があるのか、それはまだ吾々には不分明であるが、相沢が若し房一の気に入らうとつとめているとすれば、それは第一歩に於いて稍成功したと見るべきである。

    「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」

    この分では永くなりさうだと思つて、房一が腰を浮かし気味にすると、

    盛子はたつた今さつき一人きりの夜食をすませたところだつた。房一を送り出した後で、一人では別に支度もいらないし、あり合せの物で間に合はせた。餉台ちやぶだいの上に並べた食器類もほんの一二枚だつた。いつもは房一と二人なのだが、それは二人が一人になつたのではなく五六人が一人になつたやうな感じだつた。冷えたお惣菜を長火鉢で温めた。それは静かな家の中でたゞ一つの物音のやうにかたことと音を立てて煮えた。何となく、盛子は小さい娘時分のおまゝ事を思ひ出した。そして近来そんなことを一度もしたことはなかつたのだが、小娘のやうな気になつて、煮え上るのを待つ間横坐りに足を投げ出して煮える音を聞いていた。

    老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めている農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしていたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。

    富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて

    「もう河原町へは当分帰る気はないんですかね。貴方にお貸したところをみると」

    根津が箱根における化物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴していたので、友達らは皆その話を知っていた。

    並んで立つと、いきなり

    それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしていた。

    「何しに来た!」

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