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    今さつきまで誰もいなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へている、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。

    「なに?競馬のこと?」

    万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟ひっきょう、浴客の少かったためでもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。

    知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にいた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質むかしかたぎの一克いつこくな性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和おとなしさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見には挺てこでも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つていたが、あいはそこへ奔はしつた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へていたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしていた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へていたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つていたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうに忌いみ嫌つていた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。

    その日もやがて夜となって、夏の温泉場も大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣の座敷で女の軽い咳の声がきこえる。もちろん、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがてまたその咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまん中へ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。

    それから、ゆらりと歩き出すのだ。どこへと云ふことはない。足の向く方へ、と云ふよりは身体の揺れる方へ歩いて行く。背は恐しく高かつた。それに、両腕と肩から胸にかけては著しい筋肉の発達を示していた。その美事な身体にもかゝはらず、全体としての印象には、貧しい境涯に生ひ育つた者に特有な、一眼で相手を信じこむやうな単純さと同時に、絶えず自分の居場所を気に病んでいるやうな臆病さが雑居して感じられた。酔ふと、それが極端に目立つて来る。つまり、誰彼となく話しかけたくて仕様がなくなるし、同時に、相手に莫迦ばかにされているやうな気がして仕方がないのである。いきほひ、彼は思ひもよらない時に傲然となつたり、挑いどみかゝるやうに人前に立ちはだかつたりする。その癖を知つていても、大抵の人は面倒がつて避けるやうになる。すると、徳次は寂しくなつて、どこまでもふらついて行くのである。時には小料理屋の土間に入りこんで又一杯やる。通りすがりの時計店にふらつと入る。それから床屋に寄る。

    「それから、あれだが、今までよう訊かなんだが、――あれは、どうしたもんかの、大石さんの方は?」

    今泉は一寸いやな顔になりかけたが、

    「まだなかなかでせう。永いこつてすよ」

    突然はじまつたこの二人の親密な往来を、小谷は苦笑しながら、半ば無関心で眺めた。女といふものは妙なことから仲よくなるものだ、と思つた。が、由子の口から盛子のことを聞くにしたがつて、彼は高間医院について満ざら他人でもないやうな気に自然となつた。

    と訊いた。

    殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見ている間中、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはいられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつているのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えていたわけではないが、その眼玉は一体何を考へているのか判らないやうな気が房一にはした。

    小谷はやさしみのある顔をぽつと紅らめ、いくらか饒舌になり、それと共によけいきいきいする声で話した。

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