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    今まで曾かつてそんなことを考へたことはなかつた。いや、今の瞬間だつて考へたとは云へまい。たゞ、それは閃いて、捉へにくい影を落して通り去つただけだつた。――盛子は退職官吏の切りつめた地味な家庭で、ありきたりの厳しい、だが単純な躾しつけを受けて従順に育つた。娘の頃に、一体どんな形の結婚が自分を待つているのか考へないではなかつたが、それはいつも漠然としたとりとめもないもので、又それ以上に空想するほどの材料は何一つなかつたと云つてもよい。したがつて彼女の頭に浮ぶ結婚生活はをかしい位に家事向きのことで一杯になつていた。お裁縫だの、洗ひ張りだの、糠味噌の塩加減、野菜の煮方、その他細こま細ごましたことが彼女の空想を刺戟した。

    「さうですか」

    と、練吉は房一の方をふりむいた。

    その長男、つまり房一の父にあたる人は、幼い時から百姓の子として育てられたわけで、風貌こそまるで一介の農夫であるが、単純で大まかな一種長者の風があつて、その住んでいる地域、つまり対岸の町を除く河場中の尊敬を一身に集めていた。老いと共に彼も先代の容貌に甚だ酷似して来たが、彼には先代のやうな底の逞ましさの感じがなくて、先代よりも凡々としていた。彼の妻はやはり士族の出で、上流の城下町から娶めとつたのであるが、三男二女を生んで死んだ。子供は大きくなつていたが、やはりその城下町から不幸な大工の娘を無造作に後妻に貰ひうけて、この女は肥つた人の好い気質の働き者であつたが、彼は家事一切を彼女に任せて何事もなく和した。

    房一は熱心に愛想よく椅子をすゝめた。

    あの紙衣裳を着た神主達は今どこを歩いているのだらう。どこかの空地で、ばさばさ音をたてる袖口をたくし上げて、握飯をほゝばり、お茶を啜つてでもいるだらうか。きまりは、町の端々から通りといふ通りは、どんなところでも歩かねばならないのだ。昨日まで迂散うさん臭い顔で紙衣裳を眺め、触つてみようともしなかつた房一は、いよいよ着こむときになると案外な度胸を示した。ボール紙の冠をかぶり、紐を顎の下できゆつと結ぶと、肉づきのいゝ顔を一寸ひきしめて、どうだ!といふ風に盛子に擽つたさうな目をくれた。それはとにかく珍妙ないでたちにちがひなかつた。が、しかし、たとへ紙にもせよ、一定の式服といふものの持つ効果はたしかにあつた。それは本物のそれのやうではなかつたにしても、とにかく何かしら堂々としてはいた!そして速製の「威儀を正した」顔さへ自然と誘ひ出しさうであつた。

    それは背広姿に、遠目にもはつきりと判る緑色のソフトをかぶつた男であつた。

    「まさか!」

    と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。

    練吉との間はうまく行つた。少くともさう見えた。ところが、今度は茂子といふ女がどうしても正文老夫婦の気に入らぬのである。茂子は若い気の好い性質だつた。それだけに物事が不器用だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染なじまなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめていた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめていた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられていた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。

    練吉はまだ眼鏡を手にしたまゝ、不自然に大きく見える眼を極端にぱちぱちさせ、ぢつと房一の顔をのぞきこんでいた。彼は今さつき、突然の房一の来訪でよび起されたのである。

    房一は急いで膿盆をひきよせた。

    「何しに来た?」

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