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「そうしてそのお松と言う女は?」
こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病を養うに足るような、安らかな暢のびやかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。一利一害、まことに已やむを得ないのであろう。
「房一の仕わざではないか」と云ふことになつて、一同が手分けをして近所を探した。すると、老父が河へ下りる路の手前で馬に跨つている房一を見つけた。馬は此方へ向いてゆつくりと歩いていた。房一は父を見ると、彼の方から大声に父の名をよんで、馬上に得々としていた。後で皆が訊くと、馬は河へ下りる路の所までは楽に行つたが、そこからはどうしても下りなかつた、そして、彼が腹を蹴りつづけると、馬はくるりと向きを変へて家の方へ勝手に歩いて来たのだ、と云ふ。一同は大笑ひをしたが房一は小ましやくれた生まじめな顔で、まだ酔つたやうな眼をきらつかせていた。
が、材木置場の混乱にもかゝはらず、そこから一段と小高くなつている出張所の構内では、やはり高張提灯がかゝげられ、焚火が燃え、人が立つて歩いていたが、をかしい位にひつそりし、柵のところにかたまつた人影は下方の混乱を黙つて見物しているとしか見えなかつた。
男は面喰つて何を云はれているかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでいた。たとへ病気がはつきりしなくても正直にありのまゝを云ふのは禁物だつた。病人は何か断定を欲するものだ。今の場合は別だが、十二指腸虫といふ名前さへろくに知らないこの男に、いきなりその病源を云つたところで疑はしく思ふのは明かだつた。
「そんなことができるもんかねえ」
そこで自分がどんな取扱ひをうけるか、あたり前の医者としてか、それとも単に「芋の子」に過ぎなかつた高間道平の憎まれ息子としてか、房一は少からず興味を持つた。が、大体予測がつかないではなかつた。きつと、医者として認めたがらない気持がそのまゝ現れるだらう、と。
房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「あのう、笹井へ往診がございますが」
午近くなつて空気は温められてどんどん上昇し、どこも冴えてきらめき、何か軽い気を遠くさせるやうな気配は、あのひつきりないざわめきによつてよけい強くなつた。誰も彼も上気し、家の中に落ちついてはいられなかつた。盛子は長い小豆色のぼかしのある羽織の下に、ふくらみのある身体を巧みに隠し、河場からやつて来た義母と並んで戸口に立つて通りを眺めていた。今さつき山車だしがそこを通つたばかりであつた。山車の屋上では狐忠信の人形が黒い眉を上げ、口をへの字に曲げ、腕を構へて造花の中に立ちながら、揺れて思ひがけない風に頭を振り、提灯と小旗の下を過ぎて行つた。と思ふと、そこの曲り角のあたりで拍子木の音が起り、山車はとまつて、乗つていた踊り子が山車についた舞台の上で扇をかざし、きつかけを外して囃はやし方かたをかへりみて恥しげに笑ひ、あらためて又とんと板を踏み鳴らし、何かの踊りをはじめるのが見えた。間もなくそれも遠くへ行つてしまつたが、人はざわざわ行つたり来たりしていた。そこらでも、こゝらでも、遠くでも、絶えずどよめきの音が聞えていた。
と、横合から老父の道平が房一に寄り添つて来た。
だが、その間にも土手の押問答はつゞけられた。
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