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    「わたくし儀ぎ、金がなければお前様まえさまとも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末しまつも出来ず、うき世がいやになり候間そうろうあいだ、死んでしまいます。わたくしの死がいは「た」の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座ござ候。)このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度たく、その金で「あ」の字の旦那だんな〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう〔償つぐのう?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目めんぼくありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世じせいでしょう。〕おまつどの。」

    そのとき、横の襖が開いて、三十近い年の、髷なしの束髪に結つた女が茶を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしていた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。

    「おう、これか」

    それは何となく「素人しろうとくさい」滑稽な云ひ方だつた。手こずつた主人がしらせたので、徳次の家からは家内のときが駈けつけて来た。泣いてとめた。半ば耄碌もうろくした父親も足をひきずつて来た。だが、騒ぎが大きくなるにつれて、徳次は前後を忘れてしまつた。はじめは煩うるさがつていた鬼倉もたうとう脅おどすつもりで短刀を抜き食卓の上に突き立てた。徳次は瞬間ぐつと大きく開けた眼をその白く光るものの方へ近づけた。もう何だかよく判らなかつたのである。やがて、突然、彼は見た。その不気味な白い刃を。或る一つの意識が、その危険さを認め、身ぶるひをさせた。が、すぐに、あの忘れがたい憤り、血に対する恐れと、それに反撥する怒りとがいつしよになつて噴き上つた。だが、次の瞬間には、酔ひの廻つた彼の頭はその光るものを忘れさせた。たゞ怒りだけがのこつて、燃えて、それも何かしらあたりの泣き騒ぐ音とごつちやになつてしまつた。彼は、鬼倉にぶつかつている気で、しきりと食卓の堅い縁にはだけた胸をすりつけながら叫んだ。

    さう云つたのは庄谷だつた。房一がその方をふり向いた時、庄谷の白味がちな小さな眼が意味ありげに更に細くなつたところだつた。そのまゝにやりとして、

    「せんせい!」

    「それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ」

    房一は前の方を向いたまゝだつた。

    心中もその宿を出て、近所の海岸から入水するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を最後の舞台に使用されると、旅館は少からぬ迷惑を蒙こうむることになる。

    あるとき一人の女の客が私に話をした。

    徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。

    云ひながら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでいた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。

    これらの、過去一年あまりの中に或ひはひよつこりとした凸起をなし、或ひはまはりをぼかしたまゝ遠のいているさまざまな出来事のうちで、たつた一つのことが抜け出し、それは一向に過ぎたことにならないで依然としてつゞき、絶えず現在として変化し、房一に或る影響と関心を与へているものがあつた。たつた一つ――それは盛子の妊娠であつた。

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