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    鬼倉は一瞬、相手を地着きのごろか何かと思つたらしい、一種の殺気をひらめかした。

    「何んにも訊かんといて下さい。ちよつと間違ひが起きたんやで、――それは、後でお話しますわ――とにかく、手当を頼みます」

    「いや、どうも。――この男は私のごく懇意な者ですが、酒癖がわるいので、まあ今夜のところは大目に見てやつて下さい」

    「さうです。相談があるからと云ふんで帰つて来たんですが、僕なんか何も問題はありませんよ。返すものがあれば、いつでも返します。何もないんですよ。家と、田地が少し。それも抵当に入つていますよ。僕がしたわけぢやない。兄貴が選挙の費用だの何だので金が要つたのでせう」

    その次にふり向いたとき、果はたせるかな、殆ど目の前の対岸から、はつきりと彼の方を向き、ためらひながら何か云ひたげにしているやうな相手の顔を見た。それは徳次の幼友達であり、彼の兄貴株でもあれば大将株でもあつた、そして今は彼なんかには傍へもよりつけないやうに感じられるあの「医師高間房一氏」であつた。

    練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つていた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認していたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れていた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意していた。

    印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。

    「――へえ、まだお帰りぢやないのかね」

    「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つている方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結構だ」

    と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像していたよりもはるかに珍妙な仮装であることが判つた。しかも、いゝ年輩の戸主連がこの揃ひの紙衣裳で町を練り歩かねばならないといふことが味噌みそだつた。めでたい色だといふので赤が選ばれたのだが、何しろそれは安物の紙風船が雨にぬれて色が浸み出したやうなぼんやりした斑まだらに染め上げられ、触るたびにばさばさと大げさな音をたて、折目はぴんと立ち、皺はあくまで強情にしかもだんだんふえるばかりで裾だの袖口がをかしな風にまくれ上つて云ふことを利かないのだつた。いくらかへうきんなところのある小谷は、早速それを着用に及んで、座敷の中を威儀をつくつて歩きまはり、家の者の腹を抱へさせたので、その恐るべき効果は十分味つていたのである。で、他の家の主人達がどんなにそれを着こなすものか、今となつてどんなに尻ごみするものか、様子を見たくなつて、先づ手はじめに房一のところへ出かけて来たらしい。

    「や、ありがたう」

    「やつぱり徳さんが多いね」

    盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。

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