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    「あの、さきほど往診に出かけましたさうで」

    今さつきまで誰もいなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へている、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。

    「いや」

    年は五十過ぎ位、見るからに小柄な貧弱きはまる痩せつぽちだが、何となく自分の身体を大きく見せようと絶えず心を配つているらしい足の踏ん張り方をしていた。手足も、顔の皮膚もうすく日焼けがし、乾いて、骨にくつついていた。が、頭髪はそれとは反対に驚くほど真黒で、きちんと櫛目を入れて分けられ、鼻下にはやはり念入りに短く刈りこんだ漆黒の髭をはやしていた。それは何かちぐはぐな印象で、中農の地主にも見え、町役場の収入役のやうでもあり、又どこかに馬喰ばくらう臭いところもあつた。だが、一貫して現はれているのは、小柄の者がさうである場合特に目立つ、そして見る者の咽喉のあたりを痒かゆくさせるやうな、あの横柄わうへいさであつた。

    相手はしばらく黙つていた。だが、場所が高いのと、柵の中にいるためか、落ちついて答へた。

    「さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がいるな、と思つたくらいですからな」

    診察がすむと、房一は別の客座敷へ案内された。そこには、床柱の前にお寺さんに出すやうな厚ぽつたい綸子りんずの座蒲団だの、虎斑とらふの桑材で出来た煙草盆などが用意されてあつた。都会地では一時間もかゝらないやうな往診が、この田舎では小半日もつぶされてしまふ、そのくどいもてなしの習慣を知り抜いている房一は、無下むげにも断りかねてそのまゝ坐ると、間もなく和服に着換へた相沢が現れ、その後から銚子を持つた夫人が入つて来た。

    最後に行つた家は河上の小一里るある辺で、そこいらは人家は数へるほどしかなく、河つ縁ぷちに沿つた段々畑の中を幅の広い国道だけがほの白く浮いて、次第下りに河原町の方へつゞいていた。軽くペタルを踏むだけで、彼の乗つた自転車は半ばひとりでに快い同じ速度で走つた。

    彼はもう三時間も前から紋附羽織に袴といふ恰好で、八畳と十畳とを合せた広さの上り店の間に控へていた。彼の坐つている場所は大きな欅けやきの塗り柱の前で、そこには以前古風な帳場格子がどつしりと据ゑられ、当主の文太郎に家督を譲るまでの何十年間をこゝに坐り通し、帳つけをし、入つて来る人達の挨拶を受けたものだつた。文太郎の代になつて酒造をやめてしまつた後も、しばらくは帳場格子も元のまゝ据ゑられていたが、いつの間にかそれもどこかへ片づけられ、以前はこれでも狭すぎる位だつたこの二間ぶち抜きの店の間は年来畳の広さを見せたきり何の役にも立たない風だつた。それは正まさしく一種の死だつた。

    「さうだ」

    「をかしいから笑つたのだ」

    「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」

    「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」

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