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    徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れているのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つているやうに思はれた。

    「はい、あの、切れて居りますが」

    富田の仲買は表向きの商売ではなかつた。彼には小造りではあつたが格子戸の入つたしもたや風な家もあるし、山林や田地も人並みには持つていた。だが、それも地主として納るほどではない。用があつてもなくても、何となく用ありげな顔で方々に現れては話しこむ。そして、他愛のない噂話や雑談の中から自分の儲け口を見つけるのに妙を得ていた。彼はあらゆることに、例へばどの田は段あたり何斗米がとれるかも知つていたし、河原町近在の山もどこからどこまでが何某の所有であるかも、時にはあらかたの立木の数ものみこんでいたし、或る家では地所を拡げるために境界の石をこつそり一尺ほど外に置き換へたのだといふ類たぐいにいたるまで通暁していた。おまけに口達者だつた。したがつて多少煩さがられながらも、用のある時にはたしかに重宝な人物にちがひなかつた。恐らく彼自身もそのことはわきまへていたのだらう。何となく小莫迦にされながらも、今日ではどこの家へも自由に出入りできる特権のやうなものを自然と獲かち得ていた。同時にそれは一種鹿爪らしい表情となつて現れていた。

    「永いこつてすよ」――そのきつぱりとし、そのためにかへつて本当の永さを、あのつきることのない、何かしらにみちた前方の日々を現しているその云ひ方が、ひどく房一の頭に残つていた。

    「どなたか知りませんが、この男が御騒がせしたさうで、御無礼でした」

    しかし家族たちはヌルすぎるといって、入浴しなかった。そこで温泉加熱の装置を施したが、薪をたき、釜の中をグルグルまいたパイプに水道を通し、湯となって湯槽へ流れこむ仕掛けで、入浴している方は温泉気分であるが、外では薪をたいているのだ。温泉場で釜の火をたくとは味気ない話だ。

    この男が入つて来たとき、徳次の仲間だつた二人の馬喰は急にぴたりと話をやめた。そして、落ちつきのない眼で時々そつと男の方をぬすみ見た。男はぢろりと一瞥した。それは荒い皺が隈取りのやうに走つている顔だつた。だが、それきり三人の方を見ようとはしなかつた。

    鬼倉は一瞬、相手を地着きのごろか何かと思つたらしい、一種の殺気をひらめかした。

    「お松ですか?お松は半之丞の子を生んでから、……」

    「どうしたんですの?何かあつたんですか」

    「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」

    ほんとにさうだ、忙しい身分なんだ、どうしてそこに気がつかなかつたらう、――と、徳次は瞬間本気にさう考へ、自分のはしたなさを悔くやんでいた。

    御大典とそれにつゞく奉祝日は瞬またゝくまに過ぎ去つた。

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