貴方の見ているドメインは

ドメイン www.br8ewbeer.info

このページについて

    河原町の部落がそれに沿つて長く伸びているあの川は、この附近では単に吉川と呼ばれているが、町の少し上手では二つの支流を合したものとなつているので、それにも各々ちがつた名がついていたが、こゝから更に下流になると、はるか下手の河口にある町の名をとつて吉賀川となるのである。

    「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」

    「あら、お帰んなさい。随分早かつたのね。もう済んだんですか」

    腹に物がつめこまれると、さつきはあんなにへたばつてしまつた神主の一隊もどうにか元気がついたやうであつた。これからいよいよ町通りである。自分の家の前を、妻子や使用人達がずらりと見物している中を、しやちこ張つて、堂々と歩かねばならないのである。で、大半はいつのまにか草履や下駄にはきかへていたものの、まだあの木箱をひきずるがらがらいふ音をたてて、紅い色の滲んだ、紙衣の神官達は、笏を前に構へ、気を張つて真正面を向いたまゝ繰り出して来た。俳優で云へば、まさに花道の出にさしかかつて来たところである。

    「さうだ」

    練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。

    「ね、どこも悪くない。だが、その丈夫な身体の中に虫が巣をつくつとる。いゝかね、心臓病とか腎臓病とかいふやうなものではない。虫を駆除する、つまり身体から出してしまへばあんたの身体はもと通りぴんぴんして来る。悪い虫だが、とつてしまへばよいのだから、他の病気よりは性質はいゝと云ふことになる。――判つたかね」

    「ふむ」

    その日、河原町では早朝から何かしらざわめいていた。町の裏手に迫つている山々はちやうど東側にあたつていたので、朝の日は河原町の上に光を投げて家々の白壁を明く浮き上らせる前に、町の西方にひろがつた盆地の端に低く長く横はつている小高い丘陵地(それは最近切り倒された雑木山であるが、町からはかなり遠いので、何だかそこだけが茶褐色の埃を浴びているやうに見えた)に最初の薔薇色の光を投げかけた。空にはきれぎれの雲が浮かんでいた。それはどこを向いて流れているとも判らないほどゆつくり動き、動くにつれてだんだん形を変へ、うすれ、又新しい雲がどこからか生れていたが、それもゆるゆると消えて行くのであつた。

    と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像していたよりもはるかに珍妙な仮装であることが判つた。しかも、いゝ年輩の戸主連がこの揃ひの紙衣裳で町を練り歩かねばならないといふことが味噌みそだつた。めでたい色だといふので赤が選ばれたのだが、何しろそれは安物の紙風船が雨にぬれて色が浸み出したやうなぼんやりした斑まだらに染め上げられ、触るたびにばさばさと大げさな音をたて、折目はぴんと立ち、皺はあくまで強情にしかもだんだんふえるばかりで裾だの袖口がをかしな風にまくれ上つて云ふことを利かないのだつた。いくらかへうきんなところのある小谷は、早速それを着用に及んで、座敷の中を威儀をつくつて歩きまはり、家の者の腹を抱へさせたので、その恐るべき効果は十分味つていたのである。で、他の家の主人達がどんなにそれを着こなすものか、今となつてどんなに尻ごみするものか、様子を見たくなつて、先づ手はじめに房一のところへ出かけて来たらしい。

    「時に、お宅は鍵屋の分家の後ださうですな。あすこは大分前から空家になつていたと聞いていましたが」

    しかし家族たちはヌルすぎるといって、入浴しなかった。そこで温泉加熱の装置を施したが、薪をたき、釜の中をグルグルまいたパイプに水道を通し、湯となって湯槽へ流れこむ仕掛けで、入浴している方は温泉気分であるが、外では薪をたいているのだ。温泉場で釜の火をたくとは味気ない話だ。

    「僕はクレーが済んでから行つたんでね、もう終りで相沢の馬が勝つところだけをちよつと見たよ。――相沢、得意さうだつたぢやないか」

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40